ナマケモノブログ。

ぼーっとしようよ。

今日の雑記。

 ふと急に何かを世界に訴えたくなる。そんな欲が生まれる。

だから、何かを訴えようかと思う。不快だと泣き叫ぶ赤子のように。

 

 最近、よく考えることがある。才能というのは、努力も含まれる。

目標に向かって、一途に何かを努力するということは意外と力がいる。

 僕はその力がない。あるいは、諦めている。

 これが才能の差だと思う。真面目不真面目の話のようでもあるけれど、頑張りどころを見極めて頑張れない人だって存在するわけだ。それが僕。

 

 同級生のインスタなんかを見ると努力の果てに勝ち取ったモノを誇らしげに掲げている。僕はそれをぼんやりと眺めてうまく行かないもんだなぁ、と首を傾げている。

愚鈍な凡人。他人を見るたびにそう思う。人よりも愚鈍で、特に何にも秀でていない。

 人の一生というものは意外と短いとよく言われている。何が短いって、人生における旬だと思う。若さというものは体に無理がきいて、頭の回転がよく、容姿が美しい。そんな人間の華が短いんだと思う。

 そう考えたときに、僕の花はもう萎れかかっているわけで、これまでの人生で得た養分なんて大したものでもなく、不細工な花を綺麗な花畑の中でちょっと気まずげに咲いているわけだ。

 それでも花は花だし、おセンチになってわざと茎を折ったりはしてない分僕はえらい。ただ、美しいうちに手折って花瓶に差しておくっていうのもそう悪いものじゃないとは思う。ただ、不細工な花は飾るようなモノじゃないから捨てるだけだけど。

 人間の花は比べないといけない。いくら見たって意味がない。他のと比べてどれだけ綺麗か見比べなきゃわかりゃしない。見比べてやっとこっちの方が綺麗かな?とわかるだけ。でも花になれたかりゃにゃ、どれだけのもんか知りたいわけで。多少の自信もあるわけで。

 というわけで人間はこっちの花が綺麗だぞ、と威張りあいをしている。

そしてそれは決して無駄じゃない。たぶん。

 

 

 また別の話になるけど、最近多様性って言葉をよく考える。人は群れたら派閥ができる。派閥ができれば大小が生まれて、威張りあいが始まる。くだらないね。

 ひとまず、もう結構前になる献血ポスターの件ね。

 全然詳しくはないけど、いろいろ考えれる。極端な話ばっかだから余計に。

今の世界はアタリマエがある。アタリマエはアタリマエに存在しているけれど、アタリマエを苦しく感じる人も割といる。だから、アタリマエを変えてやれ!っていう人たちがいるけれど、それはアタリマエじゃない。アタリマエを変えるということは、ハイ!今からアタリマエ終わり、これからはアタリアトです!って言っても意味がない。

アタリマエを変えるにはアタリマエにならなきゃいけない。だから、法律だとかそういうのはあまり関係がない。法律が変わっても、急に人は変わらない。人の間のアタリマエなら尚更。ゆっくり変わってゆくか、熱狂を持って変わるかだけど、熱狂はまさしく熱狂でイカレチャウ。

世の中を変えようとする人は大勢いる。いい方にも悪い方にも。きっとみんな良い方に変えようとはしているんだけど、世の中を変えるということは、そこにあったアタリマエをひっくり返すってことだと思う。世の中をひっくり返すコツを得た人は、少し怖い。誰かの頭の中で幸せに暮らさせられる。ホラーだよ。

そんなことがあちこちで起こり始めている。そして、誰かがそれを止めている。

たぶんね。