ナマケモノブログ。

ぼーっとしようよ。

表現の自由

 表現の自由。表現することを権力によって制限されてはならない的なイメージ。この間の献血ポスターの話とか、表現の不自由展だとか。大抵みんな自分の意見だけを言いたいからお祭りになる。今回はそのお祭りに参加したい。

 

権力によって表現が制限されると、国家のための芸術ばかりが優遇され、反対に批判的な芸術は弾圧されてしまう。それは国家主義的で非人道的だから表現の自由というものがあるはず。だから、天皇の肖像が焼かれようが、原爆サイコーと叫ぼうが、それを妨害しちゃいけない。それを嫌いだとか、最悪だとか訴えるのはそれもまた表現だから自由。だけど、献血ポスターの話とか、その他諸々の運動は少し違うように思う。

彼らは、その表現が主張する思想が気に食わないからやめさせろと訴える。

いわゆるフェミニストだ。人権のためにその表現を今一度考えろ、というのが彼らだ。

僕は素人ながら考えてみた。彼らのツイートや、説明を読んで僕の中で生まれた僕なりの結論をここでまとめる。

 

僕はフェミニズムについてほぼ知識がないが、女性の人権運動だということは理解している。世間に当たり前に残る、女性蔑視や人権、そしてそれこそ、当たり前をなくそうと活動している人たちだ。彼らは当たり前と日々戦い、勝利や敗北を繰り返しながら女性の人権を拡張している。

 

今回のポスターの件では環境型セクハラだという訴えと共に日本赤十字社でこの絵を使うのはいかがなものかという問題提起から始まった。環境型セクハラは性的な絵や写真が公共の場所にあることで不快な思いをすることをいうらしい。つまり、「人権団体が人権侵害してんじゃねぇよ」っていうツッコミだ。

で、それにその絵のファンが「は?ふざけんなし。この絵のどこがセクハラだっていうんだ?あ??」とめちゃくちゃキレてるわけだ。

 

これは、二つの思想のぶつかり合いだ。フェミニズムは社会に蔓延する概念に対し疑問を投げかける。みんなが当たり前に思ってるそれ、人権侵害じゃないですか?と。

一方、オタク文化は基本的に簡略化、特徴化の文化だ。それはキャラクターをより少ない情報で読者に伝えるために、理解しやすく、魅力的なモノをより先鋭化させる。

元々相反しているのだと思う。対立する運命なのだ。究極を求める限り、必ずぶつかるだろう。そしてどちらもが妥協を許さない。

表現の自由フェミニストが持ち出してきた人権という物に対する盾だ。オタクは表現の自由のもとで我々を否定することを許さないと怒っているわけだ。

対するフェミニストたちは、この問題のそもそもはそこではないし、フェミニズムを欠片も理解してないまま言われてもねぇ、と言った感じだった。

 

僕は、フェミニズムについて最近知った。彼らの活動は崇高であると同時に非常に害悪だ。彼らは自分たちが一方的な正義であることを包み隠さない。そこにはある種の選民思想がある。思想に理解を示さない人間を時代遅れだの、馬鹿だの好き放題にいう。

確かにそういう側面はあるが、当たり前を打ち壊して平等を望むのに、彼らを馬鹿にする必要はあるだろうか。自分たちの思想を理解できない愚か者とレッテル貼りすることに意味はあるだろうか。ただ、気持ち良くなってるだけじゃないか。

 

また、オタクもオタクだ。そこには明確に不快になってる人間が居て、いかがなものかと言ってる中で、「は?これのどこがセクハラなんだよ」とキレてる様はまるで子供だ。自分とは違う、感じ方考え方が存在することを知らないのか。あまりに自己中心的な言動が目立つ人が多かった。話を曲解し、じゃあこれは?と屁理屈と駄々をこね、あまりに情けない。大人気ない、子供っぽい、大人。

 

炎上というものは、様々な人間が独自の意見を持ってその話題に参加する中で、異論や反論をぶつけ合うことで大きく成長する物だと思う。表現の自由は全ての意見や表現を制限なく発表、表明できることを言う。これは素晴らしいことだ。炎上はまさしく表現の自由の結果だ。どんなクソ野郎でもクソを出すことは誰にも止められない。